僅か16年の悠斗の人生、その証をここに残します
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意見陳述(2011年2月10日 第2回公判)

新潟地方裁判所 御中


平成5年1月24日、私達は結婚式をしました。1月の新潟県にしては、めずらしく晴天でした。 そして約1年半後待望の子供を授かる事が出来ました。その子が悠斗です。
 前日の夜、陣痛が強くなった妻を病院に連れていきましたが、出産まではまだ時間が掛かる為一旦帰宅し、 翌日病院に向かいました。そして翌日の10月10日、13時27分、3.400グラムで無事にこの世に生れてきてくれました。 当時の10月10日は祝日で体育の日。この日も晴天でした。
 「10月10日は祝日だから毎年当日にお祝いができるね」と喜んだ事を思い出します。

 出産の前から男の子と女の子の場合の2通りの名前を考え、悠悠(限りなく・はるかな様子)の悠と、北斗七星の斗と書き永遠に輝き続ける様にとの思いで「悠斗」と名前をつけました。 しかしこの宝は、この世で輝く事はもうニ度と出来ません。
 平成13年、当時の吉田町立粟生津小学校に入学し、いよいよ学校生活のスタートです。 この記念すべき日も晴天でした。
 小学校2年を終える3月、悠斗に運動をさせたいと思っていた私達は、町の広報で吉田サッカークラブの存在を知り参加しました。 それが悠斗の僅か16年の生涯で半分を占める8年間のサッカー生活のスタートとなりました。

基本的に毎週土曜・日曜の午前は、ふれあい広場で練習または試合等で遠征でした。チームの中では主力ではなく必ず試合に出れる選手ではありませんでした。練習も辛いきつい事もあったでしょうが、一度も辞めたいと言う事はありませんでした。悠斗のおかげで遠征に連れて行ってもらい、色々な処、施設に家族で1日でかけました。

中学のサッカークラブは高校と違い、試合会場へは親が送迎していました。少し遠い時は、一日グランドで観戦していました。妹と弟も連れて行く事も度々ありました。その時は大変だなと思っていましたが、今思うと他の部活の親子よりずっと一緒にいる時間が長かったです。

サッカー選手証
日本サッカー協会 選手証

小学校4年生の時に、悠斗は新潟総おどりに出会いました。粟生津小学校の子供たちだけのチーム[舞童塾 風雅]で非常に楽しく踊り、演舞曲を録音し繰り返し聞いていました。
初めての新潟総踊りに参加し演舞した時は、わくわく感がダイレクトに伝わってきましたし、最後の総踊りでは私達に感動をくれました。福島県の須賀川市や喜多方市などのお祭りに参加し楽しく踊っていた事が思い出されます。

 中学2年の3月、私は富山に転勤、単身で赴任となり、悠斗にはお父さんのかわりにお母さんを手伝ってくれる様にお願いしました。これから受験を向かえる時に悠斗には可哀そうだったと心が痛みます。そして今年新たな高校生活がスタートしたのです。

希望に満ちた新しい環境での生活に、私は高校生活を思いっきり楽しみ、中学時代の友人も大切にし、生涯付き合える友達・友人が作れる様に、そして将来何をやりたいか、具体的に見つける事ができる様にと祝福のメールを送った事が思い出されます。
そして11月4日、一生忘れる事の出来ない、忘れる事のない日となりました。

 午後5時から勤務の私は、たまたま携帯の着信に気付き、妻からの連絡で悠斗が事故にあったと知り、すぐに帰郷しました。そして車中で死亡の確認を知りました。乾く喉・高鳴る鼓動・あふれる涙・込み上げる不安。帰宅し弟と妹を連れて病院に着くまで約3時間半、病院で私を待つ妻の気持ち、あなたにこの気持が解るでしょうか。解るはずがありません。なぜなら、あなたには子供がいません。

病院で待っていたのは、衝撃でした。あまりにも痛々しい姿の、無言の悠斗でした。冷たくなった変わり果てた悠斗の姿が目に焼きつき忘れられません。私たちが悲しいという気持ちより、悠斗自身がもっと生きたかっただろうと思うと可哀そうでなりません。悠斗を思い出し涙する日々が続きます。

なぜ悠斗が亡くならなければならなかったのか?考えても仕方ないと思いながらも、もし車で迎えにいっていれば、分水高校ではなく、別の高校にいっていれば、自転車が盗難にあっていなければ、部活がもう少し早く終わっていれば、周りが明るければ等色々考えてしまう毎日です。

とても丈夫で、めったに病気もせず学校も殆ど休んだ事がなくよく食べよく眠る子でした。体格もよく中学に入ったころから私の身長も体重も越していました。長身でやせているジャージ姿の子や制服姿の男の子を見ると、つい悠斗とだぶらせてしまいます。よく食べる子だったので、スーパーで買い物をしていると、これも好きだったなぁと思い、好きなだけ食べさせてやりたかったと思います。音楽を聴く事が大好きで、勉強しながらでもイヤホンで聞いていました。テレビで好きだった曲がながれてくると、悠斗にも聞かせたいと思います。

サッカーも高校に入り毎日練習に励んでいました。スパイクは、自分でインターネットで注文した物でしたが、1ヶ月程度しか履けませんでした。新しく購入したウエアーは数回しか着る事ができませんでした。16歳の誕生日にプレゼントした、本人希望のニューモデルのアデイダァスのジャージ上下でした。これは棺に入れてやりました。

お気に入りのバック
ネットで見つけた お気に入りのバック

亡くなった日の鞄の中には、その日に発売の月刊誌が入っていました。下校途中に購入したその本を読むのを楽しみに、自転車を走らせていた事と思います。本人が亡くなってから、生前注文していたカレンダーが届きました。一度も目にする事が出来なかったと思うととても残念です。

亡くなって初めて、高校のサッカー練習を見学する事ができました。教室の悠斗の席には、誰が供えてくれたのか、花瓶に花がさしてありました。サッカー部は雨の日だったので、校内の廊下や階段を走っていました。
「悠斗もこんな風に、黙々と走っていたんだなぁ」と思い胸が熱くなりました。

もっと褒めてあげたかったです。クラブの先生から、サッカー部を強くしようとしてくれていたと聞いて嬉しくなりました。
小学校から8年間ずっとサッカーをやってきて、たくさんの仲間ができ、コーチや監督と出会えた事が、悠斗の人生にとても重要な事でした。 中学校の卒業文集にこう書いてありました。

中学校生活の三年間で、自分が一番学ぶことができた場所は、部活動だと思います。いろいろなことを学んだなかで一番自分の中にのこっている言葉があります。それは「安易に妥協するな。」という言葉です。走りこみなどの練習でよく監督にこの言葉を言われました。簡単にあきらめてはいけない、もう少しがんばろうと、自分にいい聞かせつらい練習でもがんばってこれたんだと思います。これは、練習だけでなく、いろんなことに通用することだと思います。

ほかにも監督などコーチの方々にはサッカーのことだけではなく生活面や人にたいする礼儀も教わりました。この教えによって自分は、安易に妥協しないことや、社会的な常識を学ぶことができました。これはこれからずっと続くことなので、常に意識しながら生活していきたいと思います。

弟は、朝元気に出たまま帰らぬ人となった兄のせいか、妻が出掛ける度に、「車に気をつけてね」「事故にあわないでね」などと何度も声をかけてきます。夜になると「僕より先に死なないでね」「お母さんがしんだら生きていけない」とよく話しかけます。小学4年なのに死がとても身近な事に思っている事が可哀そうでなりません。

妹は作文で兄の死について書きました。亡くなって、はじめてとても多くの人に愛されていた事を知ったとありました。それを読んだ先生が「自分も5歳の娘を亡くした経験があり、10年以上たっても思い出すと胸が痛む。」「でもそれは、自分の中で娘が生きている証拠だから」と書いてありました。私もそう思います。

11月6日 お通夜・7日告別式。この両日も前日までの悪天候が嘘のような晴天となりました。携帯には沢山のメールが送信されてきました。お通夜の席には約380名の方が参列くださいました。この思いを感じてください。

お通夜

この事故は偶然に起きた事故では無いと考えます。あなたはこの道路において、繰り返し制限速度を大きく上回る運転をしていませんでしたか。いずれ発生する、起こるべきして起きた事故であったと思っています。そして偶然悠斗がその被害者となったのです。 悠斗は道路を渡りきれる確信があって横断していたはずです。検証から制限速度であれば衝突はしていなかった事は明らかです。突然目の前に迫ってくる車に気付いた悠斗の心の叫びを届けたい。どんな思いだったか。どんなに恐怖を感じた事か。その瞬間を迎える時何を思ったか。悠斗は何を求めていたか。

日常生活・仕事中にふと気が付くと、悠斗の事を考えています。一人で生活していると、話し相手もなく悠斗の事を考え眠れない日々が続きます。親より先に死なせてしまった私たちは、悠斗の為にどうどう生きていけば良いのか。どう生きたら悠斗が喜んでくれるのか。

家族を残し単身で富山に出勤する私の気持ちが解りますか。残された家族の心の傷を理解できますか。悠斗は私達の心の中で生き続けますが、残念ながら、永遠に16歳を迎える事はありません。そしていずれ、弟と妹はこの兄の年齢を超えてしまうのです。16歳になってまだ1ヶ月も経っていない高校生、これから将来の夢を具体的に描き青春を謳歌できる自由を奪った事実をどう償うのですか。

死因は脳挫傷による心肺停止・頭骸骨多発骨折となっていますが、頭部の3か所の骨折、ひと晩続いた出血、眼底骨折、顎、鎖骨、肋骨、等多箇所骨折。脳は崩れた豆腐状態・肺も心臓も肝臓も破裂してしまった様な状態となってしまった。これが悠斗の最後の姿です。

声を大にして叫びたい。もう二度と悠斗に会えない。悠斗を帰してください。

反省・後悔・謝罪は人として当然の行為であり、過大な評価に値しません。刑の確定後、その定められた償いが終わったとしても、悠斗はもどってきません。一生悠斗の事を忘れる事なく償いの気持ちを持って生活してください。

携帯電話
液晶は壊れて見えなくなりました

私達は、これまで紳士的に対応してきたつもりですが、前回の公判で、事情聴取から二転三転するあなたの答弁に憤りを感じています。事故直後、悠斗の生存・怪我の状態を案じたならば、車内に数分間留まる事なく直ちに駆け寄る行動となるのではないでしょうか。
あなたの答弁から、もし目撃者がいなかったら「逃亡の可能性も否定できないのではないか。」と感じました。

この事故は、[頭を強く打っての死亡]等の、他の交通事故死と同様に判断される事無く、悠斗の悲惨な状態に値する、自動車運転過失致死罪に対する最高刑を強く望みます。


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